2017年1月14日土曜日

先日、「この世界の片隅に」を観てきた



以前、広島から呉方面をクルマで旅行したことがあったんだけど、そのときに大和ミュージアム入り口付近に一枚のポスターが貼ってあって、いまこのアニメ映画を作っていますっていう告知があったので、できたら是非観てみたいと思っていた。

実際観てみると、その時代の人々の日常が淡々と綴られていた。その日常に生きる人々はその日々をただ懸命に生きているのだけど、一方観客が、このあとどうなるのかを歴史として知っているという特殊な感覚だった。

とてもディティールにこだわっていた作品。タンポポも日本古来の白なのです。
たった70年ぐらい前の日本の生活がこんなにも違うのかと驚かされる。

アメリカとの戦争について、もし本土決戦まで行っていたら、その後のベトナム戦争のようにアメリカ側が疲弊してあるいは勝ったかもしれないと、ふと考えたことがあったのだけど、でもやっぱりそうならなくて良かったんだなって思った。

ネタバレなしで。でもひとつだけ。個人的には絶対にこの人死んじゃうんだろうなって思う人が死ななくて、本当に良かった。


2017年1月4日水曜日

あけましておめでとうございます。2017年


浜松町の貿易センタービルの年賀飾り。このでかいビル、建て替えるらしい…
浜松町の世界貿易センタービル。なんとこのでかいビル、立て替えするらしい…。

あけましておめでとうございます。
2017年、平成29年。なんと年男。時が経つのは速い。

昨年、出雲大社に行って人の縁を大事にしようと思った年。

元旦は家族と過ごして、その次の日は毎年同じメンバーでやってる初詣新年会に出るなど快調な滑り出し。

自分的には割と節制しているせいかそれほど身体の衰えを感じるってことはあまりないのだけど、年齢は確実に年齢を重ねていて、親世代が病気したり、同世代である新年会のメンバーは、出世して早く55才でリタイアするより、60まで働いた方が稼げる金額が多いし…なんていう話をし出していてショッキングだった。

人生の終わりの話をするなんて…まあしかし…一休さんはその昔、冥土の旅の一里塚…なんてことを言って周りをげんなりさせたりしていた訳だし、本来、区切りという意味では正月にふさわしい話題なのかもしれぬ、とも思ったりもする。

さて、今年も築地の本願寺(うちは浄土真宗なのです)、雑司ヶ谷の大鳥神社、港区の芝大神宮とそれぞれ一日ずつ巡れた。

昨年の無事を御礼できて、良かったな。

虎ノ門ヒルズ
散歩のついで…虎ノ門ヒルズ


あと、お正月の東京の空はとても澄んでいて、さらに今年はお天気も穏やかでお散歩するにはとてもいい。
歩いていると頭の中の様々なことが整理されるような気がする。

今年は身近なところで様々なことが起こることが予想される年。
だから新しいことにチャレンジしてみたい。

前に進んで新しいことをしなければ、現状維持もままならないからね。

メモ:

2016年12月31日土曜日

2016年を振り返って…

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屏風ヶ浦(茨城県)

今年は穏やかなよい年だった。個人的には大きな病気も事故もトラブルもなかった、と思う。
来年もぜひそうあって欲しいと思った。

しかし、将来のさまざまな大きな出来事のきっかけみたいなものは、あれこれとたくさん起きたような気もする。出会いと別れ、出来事…、など。

プライベートにおいては、なんだか今年は、海に行った年として記憶されるような気がする。
どの海も、とても空模様が印象的だった。

願わくば、来年も大切な人たちと、新しい風景に出会えるような、そんな一年であって欲しい…。

皆様、よい年をお迎えください。


2016年12月14日水曜日

運というものは結局なんなのか

一畑電気鉄道
一畑電気鉄道の車窓。 宍道湖(しんじこ)が見える。

先週末、島根と鳥取に行った。毎年行っている学生時代の友人たちとの旅行。
縁結びで有名な出雲大社がある。

縁結びというと結婚する話ばかり思い出しがちだけれども、実は人間は社会的な生き物だから、毛局幸せをつかもうと思えば、良い縁(人間関係)とつながるしかないのだよね、ということに気がついた。

もちろん、才能(能力)などが成功の源泉であるとは思うのだけど、それはあくまで社会とかみ合ってはじめて力を発揮するものだから、その力を発揮できる場にいるとか、あるいはその縁につながるための行動が有効だと思うわけね。古今、才能はあるけど成功はしなかった偉人の物語は枚挙に暇がないけれど、それはやはり周りとのかみ合いの問題であったり、一方、成功者の陰にはそれを支えた人がいたりするわけで、そこら辺、ちょっと来年はテーマとして考えてみようかな-、なんて思った。


鳥取砂丘
鳥取砂丘。高い丘に登ると下に砂浜が見えて人が小さく見える。(結構距離あります)

今回は国道9号を使って、松江から境港経由で鳥取まで行ってみた。
両側一車線の高速道路のような自動車専用道路があって、これはそちらの方までずっと無料区間なので、そちらを利用。
途中、雹が降ったり、はたまたお天気になって、さらに天気雨…みたいな割とあれたお天気だったけど、さすが出雲国からはじめたルート。
出雲!って感じです。

白兎海岸
因幡の白兎で有名な白兎海岸。かわいい名前とはうらはらに「神話の舞台」という趣。

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お天気雨。すごい豪雨。

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夕方、でかい虹が出たよ!なんかいいことありそう。

2016年12月7日水曜日

リアル知り合いとSNSでつながるべきか



銀座

最近、mixiが10年前の日記をランダムで公開する機能を実装した。
昔の気が置けない知り合いとの、アホなやり取りが懐かしい感じだった。

この機能を見たきっかけで、この投稿のタイトル通りのことを考えたのだが、実際、リアル知り合いとSNSでつながっていくと、どういうことが起きるのだろうか。

まず、SNS上で展開されるやりとりは、基本的にフラットな人間関係であり、思ったことややってみたことが、そのまま書かれているものが多く、またそういった記事こそ読んでおもしろい。

いかにもその人の本音に触れたようでもあるし、相手がわかったような気持ちにもなる。

しかし、リアル知り合いは気楽な昔のmixiのようなSNSにおける人間関係と違う。

例えば職場では上司部下的な人間関係、あるいは学校では先生や先輩後輩などの関係性、つまり、その社会における上下関係がある。

それを無視して一緒にしてしまうと、SNSの醍醐味である本音トーク的なものや思いつきやら、下らない言葉遊びといったものが減って、さらにその人との個人的な関係だけならおもしろいだけで済むことがそうならなかったり、嫌いだから関係性を削除するというお手軽さも失われることになる。

また、おもしろいアイディアだからといってそれを皆の前で発表してしまうと、ときに今の職場や学校の環境を否定していると思われたり、あるいは後輩や部下があまりに優秀なアイディアを発表すれば、上の立場にいる人間がリアルでも自らの立場が脅かされるのではないかと感じて圧力をかけたりする可能性もあるし、逆にそうされるんじゃないかと萎縮してしまって、思い切ったことが言えなくなってしまうこともあるのだと思う。

つまり上下関係がときに破壊されることがある危惧が、個々のメンバーの活動に影響を与えるんだ、ということなのだよね。

だから、そこは裏アカや鍵付きの匿名アカウントを作って、小さいコミュニティの中で楽しくやっていくのもまあ、それはそれでSNSのいい楽しみかたかもしれないよね。


2016年12月5日月曜日

年の瀬

新橋駅の機関車
新橋の機関車

今年もおかげさまで、ここまでは平穏に暮らすことができている。ありがたいことだ。
しかし、一方で前途多難さを感じることもあるね。

あと少しの間、無事に過ごせますように…。

2016年12月3日土曜日

テスト投稿

何年も放置していたこのブログですが、たまには何か書こうかなーとか思って、開いてみました。

ふむむ…。

というわけで、ちといじっている。

…今日はもう本当、お仕事というか連日の作業で、 疲れてしまったので、家でのんびりしている。

で、この放置してるブログも消してすっきりしようかなーなんて思って、ちょっと読み返しはじめた。

で、もう何年も前のコンテンツを眺めていると、なんていうか同じことばっかり書いていることがわかった。

で、このGoogle様のBloggerが若干アプデされていたみたいで使いやすくなっていたので、消すのはやめて、もっかいここをいじってみることにした。

さらにデータもXMLで吐き出し可能になっていたので、作り直していたブログと連結してみた。

色々見てみたのだけど、昔使っていたお気に入りだった写真サイトのflickr。古いコンテンツのリンク先の写真は残っているのはいいんだけど、今ちょっと開いてみるとサイトの動作が異常に重かったりしているので、ここだけどうしようかなーなんて思っている。

微妙にフィルターかけてくれるおかげで、きれいに写真が表示される良いサイトだと思っていたのだけど、なんか向こうのYahoo!がいまいち色んなことがあったりして、その傘下のflickrも若干サーバ環境で影響受けてるのかなーなんて思ったりしている。

写真サイトは別にして、他のブログサイトで作り直してみるかとも思ったのだけど、もうしばらくここ、Bloggerを使ってみようと思った。


2015年11月29日日曜日

音、聞こえる?

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職場近くに新しいビルがあって、そのビルの入り口周辺では鳥か、あるいは若者を追い払うためか高音が鳴っている。 (チチチチチチチチ・・みたいな音)
この音は若者にはうるさいぐらい聞こえるそうだが、老人はまったく聞こえないという。

おそらく若者(子供)がたむろってくるのを避けるためにやっているのだと思うのだけれども、最近なんか急にその音を感じる力が弱くなったような気がする。

よくmp3は人が聞こえない高音域をカットし、データを圧縮することでファイル容量を小さくしているというのだけど、若者ははっきりと可聴域が広いからその劣化がわかるんじゃないかな?とか思った。

で、今はやりのハイレゾオーディオって実際、若者でないと本当の意味では楽しめないんじゃないかな、とか思った。

2015年10月8日木曜日

私家版・夢十夜2 猫の皮を被ったなにか

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先日、かねてより再び訪れたいと思っていた、埼玉の奥秩父にある、三峯神社に行ってきた。

その場所に行ったのは3回目。本当に山の中で、風が涼しく訪れた当日は天気も良かった。

 霊験あらたかな場所です。
道路はわりと空いていたというのに、クルマで片道約3時間ちょっとかかる、ちょっとスピリチャルな場所。

そこから帰って、その夜に見た夢。

今回の舞台は古い秩父のような昭和の雰囲気が残る街の、古い木造アパート。2階に上るには老朽化した鉄骨階段を使わないといけないような場所。


そこを誰かと(自分の他二人ぐらい?)歩いていて、自分がその階段をのぼりおりしてると、数匹の猫が自分の周りに寄ってくる。

その中に一匹だけ、白い、血だらけのチンチラのような猫がいて、さらに自分に寄ってきて、付きまとうので軽く抱いてみると、すごく深手を負っていて、傷だらけの白い身体に赤い血がたくさん付いていた。

かわいそうに、と撫でていると、何故か「ああもう死んじゃうんだな」と思って、急に悲しくなって涙が出てきたのだけど、撫でているうちに満足そうな表情になってきたので、泣きながら「こんなものでいいのかい?」とか猫に話しかけていて、そのうちその姿はなくなってしまったような…(この辺の記憶がいまいちない)…感じだったのだけど、あとで「あっ!」って思って、ああ、この猫、猫の姿してるけど、本当は猫じゃなくて、この世にさまよってた魂だったんだなぁ、誰かに看取って欲しかったのか、と気がついて目が覚めたのでした。

結構泣いてた(笑)

どうもスピリチャルって人をだますところばかりクローズアップされがちだけど、これ感情の問題なんだなって思った。もっとも、感情に流されてだまされることが多いんだよね。世の中。

2015年9月15日火曜日

秋…

今年も早いもので、もう下半期がスタートしてしまった。
今年はおかげさまで割と平穏な年であって、大きなトラブルもなく推移している。
家族もそれほど大きな病気とかそういったものもなく推移してる。

ここのところ、Twitterを眺めることが多くて、知り合いたちと@メンションを飛ばしながら毎日を何となく過ごしているのだけど、一方でブログみたいなものも書かなくなってしまって、立ち止まって考えをまとめるっていうことをしなくなっちゃったような気がする、ので、ちょっと投稿。

運動は習慣化できたので、次は少し勉強する習慣付けたいなーなんて。

今年は良い年。秋風が気持ちよい。